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松田彬人パーソナル・インタビュー【前編】その後の運命を変えた専門学校時代の“ある曲”との出会い

今回の記事から、弊社所属の松田彬人へのパーソナル・インタビューを、前後編に分けてお届け。まず前編となる今回は、松田の音楽的ルーツから、アニメソングの仕事を始めるまでの話題を中心にご紹介。アマチュア時代の知られざる経歴や、キャリアの中で最も緊張した仕事のひとつなど、これまでの足跡をじっくり振り返っていきます。

【様々な形で音楽に触れた学生時代、実は意外な“受賞歴”も……?】

――まずは松田さんの音楽のルーツとして、音楽を始められたきっかけからお聞きしていきたいのですが。

松田彬人 音楽に触れ合うきっかけになったのは、間違いなく親に言われて通い始めた、音楽教室だと思います。ヤマハ音楽教室でエレクトーンを始めて、生まれた大阪から奈良県に引っ越したあとも、高校受験に本腰を入れるタイミングまで個人レッスンを受けていました。

――引っ越しても続けたということは、エレクトーンを弾くのは嫌ではなかった?

松田 いや、嫌でした(笑)。何回かサボって、怒った親にテキストを破られたりもしましたし……。

――それでも、部活にシフトしたりしたわけでもなく。

松田 そうですね。中学校では最初に吹奏楽部に入ったんですけど、先生との折り合いがつかずに1年ぐらいでやめて。その後なぜか美術部に入ったんですけど……全然部活はせずに、サッカーとかして遊んでばかりでしたね(笑)。

――エレクトーンの個人レッスンのほうでは、どんなことをされていたんですか?

松田 その頃って、音色とリズムのデータが収録されたフロッピーつきのエレクトーン用の楽譜が売っていて。それを使ってゲーム音楽だったり、ヒット曲だったり、T-SQUAREだったり……いろんな曲を弾いていました。

――ちなみにその頃って、どんな曲をよく聴かれていたんですか?

松田 やっぱりCDがすごく売れた時代だったのもあって、ヒット曲は聴いていました。Every Little Thingとか初期の浜崎あゆみさんはめっちゃ聴いていたし、他にはJUDY AND MARYとか、あとは小室哲哉さんの曲もですし……今思い返すと、あの時期はよくCDからMDへ音源を移す作業をしていましたね(笑)。ラベルにめっちゃ正確にタイトルを書いたり……。

――お小遣いが足りないときは、ラジオで流れるのを録ったりもして。

松田 やってましたね(笑)。CDからダビングできない頃は、テレビからマイクでカセットテープに録音したりもしてましたけど。でも当時は、ゲーム音楽のほうによりハマっていたと思います。例えば、『ドラゴンクエスト』とかですかね?サントラをレンタルしたり、特に気に入ったものはCDを買ったりもしていました。それもあって、スーパーファミコンとかで出ていた『音楽ツクール』で、打ち込みをするのにもハマっていたんですよ。

――その頃から、作曲のはしりといいますか。

松田 そうなんです。同じシリーズの『RPGツクール』といったソフトで使えるような曲を、量産しまくっていた時期もありましたね。

――また、松田さんはお仕事を始められる前から、アニメや声優さんもお好きだったとお聞きしました。そちらに強い興味を持たれたのは、いつぐらいの時期だったのでしょうか?

松田 いつだったんだろう……?高校生の頃までは普通に『ドラゴンボール』みたいなアニメを毎週観たりはしていましたけど、それぐらいで。めちゃくちゃハマっていたわけではなかったから……あ、たぶん高校を出たあと音楽の専門学校に進学して、夜更かしをするようになってから、深夜帯に放送しているアニメを観るようになって……という感じだったかもしれません。

――音楽の専門学校に進まれたということは、すでに高校のときには音楽を仕事にしたいと思われていたんですか?

松田 そうですね。そもそも音楽の道のことをなんとなく考え始めたのは中学生ぐらいのときのことで、そのときは「たぶん自分は、音楽の道でしか生きられないんじゃないかな」という変な自信もあったんです(笑)。当時はちょうどパソコン雑誌でクリエイター向けのコンテストみたいなものが開催されていて、親は「そこで3回入選したらプロになっていい」という話をしてくれていたんですよ。

――それを達成して、専門学校に?

松田 いえ、それが達成できなくて。でも2回入選して、賞金をもらったこともあったので、そこからズルズルと「なるぞ、なるぞ」と……(笑)。

――たしかに、2000年代前半ぐらいまでは、毎号コンテストをやっているような雑誌がありましたね。

松田 そうなんです。付録にCDがついていて……。

――『TECH Win』とか。

松田 あー、よくご存知ですね! それなんですよ!

――本当ですか!? 実家にまだあるかもしれないです(笑)。

松田 あはは(笑)。そこの音楽部門で、2回入選したんですよ。知る人ぞ知る、デビュー前の……恥ずかしい(笑)。

――専門学校に入ったときは、どんな音楽を作りたいと思われていたんですか?

松田 入学当初はそれこそ「小室さんみたいな系統の音楽をやりたい」みたいな、漠然としたイメージしか持っていなかったんです。でも『成恵の世界』というアニメのOPを観たときに、「映像との組み合わせで、音楽ってここまで面白くなるんだ」と気づいたのがきっかけで、アニソンを書きたいと思うようになったんです。

――それがひとつの、大きなターニングポイントになったわけですね。

松田 はい。もうOPテーマの、CooRieさんの「流れ星☆」がとにかく好きすぎて。CDを買って何十回も繰り返し聴きまくった結果、OP明けの提供クレジットのバックで流れているのがデモ音源だと気づいてしまったぐらいなんです(笑)。

――そうなんですか!知らなかった……。

松田 これ結構マニアックなポイントなんですけど、生ドラムじゃなくて打ち込みなんですよ。そこに自然と「あれ?違うなぁ」と気づくぐらい好きで繰り返し聴いていましたし、影響されていきまして。パッと聴き“アニソンっぽい”雰囲気ってあるじゃないですか? 例えば、わかりやすいキメがあったりとか。そういうものを目指すように、自然となっていきました。

【念願のアニメ音楽の道で待っていた、“ド緊張”した運命の仕事】

――それぐらいの衝撃があったわけですね。

松田 そうですね。だから在学中から「どうしたら、アニメソングの道に行けるんだろう」とずっと探っていまして。在学中にあったアニメのコンペには作曲で通って、テレビで放映もされたのでアニソンの作曲家としてデビューはできたものの、それがその後には全然つながらなくて。「どうしようか」となったときに、「とりあえず、東京に出て行け!」と実家を半ば追い出される感じで上京したんです(笑)。

――「ちゃんとやるなら、1回東京に出ろ」という意味で?

松田 そうですね。「どうせ実家にいたら気持ちが入らないだろうし、覚悟も決まらないだろうから」って。たしかに、実家にいたままだとどうしてもなあなあになるというか、「何もしなくても生きていける」という甘えも出てしまっていた気がするので、「1回後に引けない状況でやってみたほうがいいんじゃないか」ということだったと思うんですけど。上京した後、前の事務所に所属させて頂きました。そこで、しばらくは成人向けゲームのBGMと、その主題歌をセットで作っていました。

――メーカーさんのウェブサイトに、OPデモがよくUPされていましたもんね。

松田 そうなんですよ。たぶん当時が全盛期だったと思うんですけど。

――00年代前半からI’ve Soundを筆頭に美少女ゲームの曲が加速度的に広まりましたし、ユーザー側の環境も一気にブロードバンド化して、そういったデモを観やすくなった頃だと思います。

松田 そうそうそう! たしか新海誠さんも、その頃『ef – a fairy tale of the two.』のOP映像の監督をやられていましたよね。あれもすごく綺麗な映像のPVだったな……。しかもその時期って同時に、電波ソングの全盛期でもあったじゃないですか?僕も「電波ソングリスト100」みたいにずらーっと挙げられていたものを、ひと通り聴いてみたりしていて……。

――それは仕事上のインプットでもあり、趣味として聴かれていたようなところもあったんですか?

松田 そうですね。やっぱり、興味もありました。だって電波ソングって、とんでもないことするじゃないですか? 中には「これ、よく歌えたな」って思うようなものもありますからね(笑)。

――そうしてお仕事をされていくなかで、2000年代終盤からはアニメ主題歌や声優アーティストへの楽曲提供を次々と行なわれ、念願を叶えられていきます。これも、何かきっかけあってのものだったんですか?

松田 はい。前の事務所でのお仕事は基本的にはゲームに紐づいたものばかりだったので、どうしてもアニメ方面に出られなくて。楽曲提供のお話をいただける機会もなかったんです。そんななかで、とあるライブに関係者として招待していただいたときに、当時ランティスに在籍されていた伊藤善之さんという方と出会いまして。そこから少しずつ直接お話をいただくようになって、お仕事をさせてもらうようになったんです。

――ライブ会場での偶然の出会いが、突破口になったんですね。

松田 そうなんです。ただ伊藤さん、当時はまだすごくトゲトゲしていた頃で、「なんかダース・ベイダーみたいな人がいるなぁ」っていう印象だったんですけど……(笑)。でもPOPHOLICを紹介してくださったのも、伊藤さんだったんですよね。それから本格的にランティスさんとの仕事が多くなって、アニメの仕事も増えていった……という流れでした。

――移籍した頃のお仕事で、特に印象深かったものは何でしたか?

松田 そうですね……『D.C.~ダ・カーポ~』関連とかいろいろな作品をやらせていただきましたけど、やっぱりスフィアの2ndシングル、「Super Noisy Nova」の編曲ですね。スフィアのメンバーの皆さんへも個人的に好感を持ってもいましたし、何より作曲がCooRieのrinoさんということで、「これは失敗できねぇ!」と(笑)。

――気合いも入ったし、緊張もしたし。

松田 はい。ただ、もう10年以上前のことなので「弦楽器を録るときにめちゃめちゃ苦労したなぁ」みたいなことは覚えているんですけど、作曲やアレンジの作業の中で覚えていることはあまりなくて。でも正直、その後のお仕事も含めてトップクラスに緊張していたとは思います(笑)。それぐらい緊張しながら、もうがむしゃらに。そのときの全力で取り組ませていただきました。

――その頃他にランティスさんのアーティストさんだと、茅原実里さんへの楽曲提供も多かったような印象があります。

松田 たしかに。茅原さんについてはお話をいただくきっかけとかは全然覚えてないんですけど……2ndアルバム『Parade』に収録されている「そのとき僕は髪飾りを買う」というアコギがめちゃくちゃ難しい曲がありまして。それをライブで観たときに「なんて曲を書いてしまったんだろう」って後悔しました(笑)。

――作曲されているときには、そこまで意識されていなかった?

松田 元々は、ギターが打ち込みになることを想定して書いたんですよ。でもそれを生でめっちゃ頑張ってくださっている姿を見て、「大変なことをしてしまった……」と思った覚えがあります(笑)。

後編では現在の松田のキャリアの中核のひとつ・劇伴の話題を中心に、今後取り組みたい仕事についても語ってもらっています。次回もどうぞ、お楽しみに!


Profile

松田彬人。作品の為だけの最高の音楽を追求。
ジャンルには捕らわれず、明るく軽快なポップスから重たく格好良い路線のロックまで、自分なりの解釈で制作。
繊細な曲からコミカルな曲まで、BGMだけではなく歌ものなど様々な音楽を丁寧に作りあげる。
2012年12月からアーティストネームの「虹音」から本名の「松田彬人」に戻しスタート。

インタビュアーProfile

須永兼次(すながけんじ)。群馬県出身。中学生の頃からアニメソングにハマり、会社員として働く傍らアニソンレビューブログを開設。2013年にフリーライターとして独立し、主に声優アーティストやアニソンシンガー関係のインタビューやレポート記事を手がける。
Twitter:@sunaken

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